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失敗

 人間も長いこと生きていると  数限りなく失敗をするものだと思う。 
  自分のことは言うまでもない。
 他の人もまた多くの失敗を重ねているのを目の当たりにしてきた。個人が沢山失敗するのだから、個人を集めて構成する会社、役所、団体は更に多くの失敗をする。

  更に、組織は個人と違って、たくさんの人同士の絡み合いがあるので 人同士の関係 のあり方にも失敗の関係というのが生まれたりする。なかなか複雑である。
 
 失敗しやすい状況にある人、団体はいくらでもある。 たとえば、
 公演中に急に生理現象を来たし役者、
 眠くなった運転手
 歯痛ニ悩む執刀医、
 狭い場所の溶接作業 、
 雨風の中での建設作業[雨] 、
 支持率低下の総理大臣、
 息子溺愛オーナー社長、
 実験結果が気に入らない科学者、
 契約期限の近づいた派遣社員
 残業残業で過労のサラリーマン[ふらふら]、 
 ・・・・・・・・・・、
 儲け過ぎた会社[わーい(嬉しい顔)]
 組織硬直の役所、・・・・・・         等々、いくらでも出てくる。
 
 そういう状況におかれた 個人や集団によっても私たちに便宜は提供される。
 それ故、 人の手で、
             創られ、作られ
             造られたもの
  は誤謬を内包していると思うのが自然である。
(提供される便宜; 自動車、食品、建築、ネット、道路網、巨大プラント、医療機器、薬品、・・・・、社会の組織とか制度、・・)・
 

 
  
 それでも私たちがおかす誤は、それを発見し是正する 働きもまた備わっていることで防がれているが万全ではない。 まして、それがわれわれの経験や知識を超えている場合はお手上げであったりする。

 そういうことは誰でも知っていることなのだ。だから

 絶対安全原子力発電所
 絶対安全超高層建築
 絶対安全超高速鉄道、超音速機
 絶対安全遺伝子操作食品
  ・・・・・・・・・・・・等々

 そういったものは人間がそれを作り、操作する以上は、
 その作業行程で作業している人に突然おきるクシャミとか、悪意とか、
 作業できない設計とか
 納入品の欠陥とか・・・・・・・
 がその工程の中に紛れ込んでいるのであって 絶対の文字は外さないといけないと思う。

 

現場の力
 設計図がいくら見事であってもそれに示しえない事柄が現場には数限りなく転がっている。
 設計を判断し、つくり、処置するのは現場なのだ。

 この現場での全作業を統率し遺漏なき作業をすることはとても困難なことである。
 更に、その仕事の現場に納期とコストを持ち込む経営が存在する。
 そこから現場では過重作業、派遣、臨時雇用、・・・を常態化する時代となっている。
 今、労働は 仕事 より お金(費用)で このようなことで現場作業力の弱体化が進行しているのだとおもう。
 だから、そのような弱い現場に無謬性を語ることは不可能だ。
 この現場への配慮の無さが続く限り 絶対安全 あるいは 〇〇年間は絶対安全ということにはならない。

 現場でしか知りようの無い知見や技能というものはそこに伝わる汗臭い継承の中にある。そのことは現場に人間的に関わらないと見えてこない。

 そうしてこそ設計の限界を知ることができ 現場と企画者との連携が可能となる。

 設計図と技能、技量継承が掛合わさってようやく安全に近づくというものだ。
 仕事をする人は設計の欠陥にピンと来る。若い設計者などが犯す過ちを未然に
 発見し是正することなどは良くあることなのだ。

 
 ところが 問題が起きると
 今の世は 抗議の声などに 安直に反応し 規準をいくつも作り、時に法規で規制してしまう。
 その中には現場の感覚からはやってはいけないということがいくつもある。
 現場から遠く離れた 知識だけの対策と罰が作られる。
 そして、出来上がってくるものは深みのない、張子のトラができる。何か起きればワアワア騒ぎ、結論が遅いと非難するばかりでは望む結果はなかなか得られないのではないか。
 忍耐という能力もとても大切なのだと思う。[目]