都会

(平成25年1月2日  正月に思ったこと。)
 正月とお盆は 村に 大人になった子供たちが帰る日だ。ほんの2,3日だが。[わーい(嬉しい顔)]
 どこの家も夜まで電気がついている。私が大人になるまでは村から去るのは二男、三男と娘たち。
 それが、私たちのころになると大学進学率も上昇をはじめ長男坊も大都会の一流大学を目指し、そこで仕事を見つけるようになって、
私の子供たちの世代になると若い人で少子化も重なり、村に残る青年が減り、このままでは絶えてしまう家というものがあちこちに出始めてきた。あと十年ののち建屋だけがのこると思われる家は指をおって数えられるのだ。
 そういう現実を知りつつ、それでも老いた親達は 来る前は 首を長くして、ご馳走を準備して待ち、孫へのお年玉などを用意しておく。それが、その日が来たら久方ぶりの騒々しさに疲れてしまう。
 けれど、それは、それで、親子孫達が続く半年を生きるエネルギーとなっていくのだ。
  数日の滞在で、灯りを求めて吸い寄せられる昆虫のように 子供達には 都会での魅力あふれる生活が待っているようだ。ここには雪が降るだけで何にもないから2,3日もすれば飽きてしまうのだ。
 次又来るよと ただ広くて静かな村の家をあとにし 窮屈だが欲しい物が簡単にそこにある都会に戻っていく。
 その都会の中でも、特に首都東京は圧倒的な存在となってしまった。日本という島国の3割くらいは東京圏の人々であり、その経済力は更に大きい。
 土のほとんどない、鉄とコンクリートアスファルトとガラスと電波の嵐が飛びかう場所にぎっしりと欲望をぎゅうぎゅう詰め込んだ超巨大な缶詰のようなそこには ところどころにまだ義理と人情は残っているのだろうが 競争という、一番になるための競争というものが 最も大切なこととして人々の心をとらえているのだろう。その競争は富を自分の懐へ囲い込む競争であり、非人情なものだ。勝利に結びつくものが正義なのだ。
 
 そこでは数学的な厳格な論理が意思決定の中核なのだ。 
 約束の時間、定まった利率、年齢や職業により定まる命の値段、電車の運行速度、大学の等級、笑いや、情緒みたいなものまで格付基準の物差しで測定される ・・・・・・ 。測定されるものは加減乗除の公理を満たすものだからそれらを組み合わせれば富の極大を目指す方程式のようなものがあったりするのだ。それを見つけ出そうと努力する人々がひしめいている世界なのだ。
 だから、そこには遅れや、おまけや、失敗や、偶然や、 優柔不断や、ただの法螺話は 加減乗除的な価値体系の中では 混乱の元であり 美しい人工的な社会では 隠したり、無視したり、閉じ込めたりしなければならないことなのだ。
 
 
 失敗や 遅れや 貧しさや 無知や 不便が 青々とした山や 広漠とした雪原や 色づく紅葉や 稲穂の波 茂みに潜む狸や などと混在する村の暮らしは そういう緊張を解き 命をもった者が暮らす場所として 沢山の発見を出来る場所なのだと思う。少なくとも 成功への道が 生きることの唯一の値打ちではなく そのほかにも数え切れないほどの自分に会った生き方があることを見出すことが出来る場所なのだと思う。
 たとえば 夏、西瓜を盗みに来た狸に出くわしたら その姿の余りのたぬき (178x220).jpg 滑稽さに思わず追っかけるのをやめるかも知れない 。  
 たとえば 灼熱の太陽のもと風を受けて揺らぐ稲田の波に心動くかもしれない 。
 たとえば 秋、農家の庭に実る柿をもらってうまいと思うかもしれない。

 それなのに今、日本中の村は老い と 貧と 疎遠 とに向かって ゆっくりと確実に近づいていくのだ。そうすればます ます村は廃れ 富とは遠い世界になるだろう。新幹線がとおれば都会から人が金を落としにやって来ると政治家はいい、商工会議所のお偉方はその受け入れ体制準備に動く。
 しかしそうであろうか。若者はますます都会に出やすくなり、村は老人に満たされていくのだ。交通の便のよさが若者の多くを村から失った歴史に重なる。
 東京へ向かう人の流れは止まらない。
 食品の多くは今以上に輸入に頼らねばならない。
 道路はあれ、用水は壊れ耕地は草原化し森に変わっていくだろう。
 
 
 
 又、今は、地方がある程度引きうけた自立して暮らした老人も都会では閑人となり溢れるだろう。
 技術立国というが、実態は多くの地域の一つ一つはちっぽけな会社やそこにいる職人の技能が下支えしている。その多くが消えていくだろう。
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  派生する問題はまだまだあるだろう。
 そこに住み、生計をたてる人がいることで国民に受け取る莫大な天の恵みというものがある。それは時に損得抜きで世話をし地域を守ろうとしてきた多くの先人達の魂の上に積み上げられてきたものだ。
 これ以上の東京一極集中とはそれらを失っていくことだと思う。それは経済のからくりでうまれる富の偏在。そしてそれが生み出す総体の恵みの喪失ということではないだろうか。

 願わくば日本という社会にすむ一人一人が生きる希望を感じて、
 天からの恵みに感謝して、
  日々幸福を感じていけるようにならぬものかと思う。
 それには
 東京をはじめとする大都会が、集中した富の流れを地方に還流し(多分今はそれが少ないのだと思う。)富の流通を潤滑にしなくてはならぬのだと思う。そしてそれは多くの人々が地方でも生計を立てていけると実感できる量なのだと思う。どうか田舎の子供達が都会である程度活躍したらふるさとへ帰って 生計を立てられるようにしてほしい。そうすることで日本らしさが蘇るのだと思う。