現場

平成25年8月28日
 三十代の頃、工場のコンピューターのシステムを担当した。その時は、ちょっと前まで3億、4億したクラスのコンピュータが4000万円台になっていた。
 (そして、今のパソコンは20万円もしないのに当時の4000万円コンピュウタアの実力を大きく上回る。)
 私が担当して5年ほどの間にメインフレームとか呼ばれたコンピュータにつながっていたパアソナルコンピュータが年々高性能化し主役となって、大きなコンピューターに取って代わっていった。

そして今に続くパソコン、スマホのネット時代となった。

それまで、システムの担当者が独占していたシステムをつくる仕事が
いくらかは勉強する必要はあるが実務者一人一人が自分の仕事にあわせて造ることのできる時代となった頃である。

 ただそういった時代でも基幹の仕組みはシステムを担当する者が担っていた。私と共にその仕事に数人の若い後輩達がいた。
 彼らはバブル時代に入社した、お受験世代。
 その後輩達と行っていた工場のシステムというのは格好をつけていえば生産の管理を支える仕組みであり、調達を円滑に行う仕組みであり、リアルタイムに現状を把握する仕組みであり、将来を分析する仕組みである。
 (だから、それは円滑に動かなくては工場の生産がストップしてしまうことだってあるのだった。実際、私は2度くらいほぼ一日にわたるシステムトラブルの体験をした。)

 私は昭和20年代の人間のせいか、ずっとコンピュウタアの前にすわり続けることができないせいもあって、もちろんある程度の年齢でずうずうしくなっていたせいもアッタのだが、時々、フラフラと工場の中を歩いてみたり、他の工場へ行ってみたり、口実をつけて外注先へ出かけたりした。

 最初は彼らが遠慮している所為かとも思った。しかし、どうも違うのである。
 若い人たちは新しい仕組みを作るとか、トラブルがあるとかしてもなかなか現場へいこうとしないのである。得意の打ち合わせコーナーで説明を聞いて デキマセン などと簡単に言ってしまうのであった。
 何度かだまかして現場へ連れ出したりしても 自分はコンピュータの前にいるのが仕事なんだ。と思っているようであった。

 一日中、画面の前に座ってするシステム開発作業。
 テクニックはあがるだろうが モノつくり の仕組みを作っている という 根本に配慮がまわらぬ。
 何年か先のもの作りの仕組みの構想しようとも思わぬし
 現場のおばちゃんや おとつぁんの仕事ぶりに心が動かぬ。
 コンピュータおたく的な仕事ぶりに
 私の思いが時代遅れなんだろうかとよく自問した。
 それから程なく私は若い者を育てるために企業でよくある人事異動で別の部門へまわった。
 彼らや彼女らは今では40代~50手前、当時の私よりも上の世代だ。
 彼らは今 現場に対して 今どういう思いを持っているだろうか。
 人生の紆余曲折を経て本質へ迫る態度を身につけているであろう。 
 
 そして、もしかしたら、私が彼らに抱いたような感情を若い世代に抱いているかもしれない。
 そうかもしれない。 

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 毎朝、テレビの報道番組では現場へ足を踏み入れたこともない人たちが、あらゆる話題について評価を下し断定している。
 それは、例えば おとつぁんが晩酌しながらサッカーを見て あそこでシュートすればよかったのに とか 決定力不足だ とか 野球を見ながら ホームでアウトできなかったキャッチャーがしっかりとブロックすればアウトだったとか そんなことを言っているのに似ている。
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 野球をやったものでなければ分からない、サッカーをやったものでなければしかもその臨場でなけねば理解できない状況を簡単に評価などできるものではない。
 あらゆる体験はできることではないが、現場で行われている事が、多くの場合、そこにいる
 一人一人の人間の その時点での必死の産物なのだということを 私は感じている。 
 斟酌する思いが抜け落ちれば、世の中は住み辛い。[三日月]