1年~2年ほど前の雑記長から

日本の画
油絵は洋画ともいい西洋から伝わった。
若いときに平面的な日本の絵に心動くことは無かった。
洋画は立体的で意思を感じさせ科学のにおいがしたのかもしれない。
それは 高度成長の空気を吸って生きた私の気分と重なっていたからかもしれない。


平成の今、
世間の気分もずいぶんとかわった。
私もまた、年とともにかわったようだ。


 いつからか花鳥風月を題材とした日本の絵、日本的なデザイン、色合い色使いといったものに心惹かれるようになった。  この島に住んだ私たちの先祖たちが遺した賜物 それがやっとわかり始める年齢になったのかとも思う。
[やや欠け月]
とんぼ 
  種田山頭火の俳句に 
 かさにとんぼをとまらせて歩く  
というのがある。
ほかにも何かフワッとした感じでチョッピリ哀しみが匂うような山頭火の歌は私の性にあう。
 どんな人かと山頭火の写真を見れば、ひょいと叢から乞食坊主が顔を出して黄色い歯をむき出して にっ と笑ったようなちょいと汚らしいが 憎めないところがある。
 この人、風に吹かれて西東。そういう放浪の旅で残した歌だから欲を薄くして見なければ見えない景色があるように思える。
 
世代交代
 鳥インフルエンザと騒いで大量のワクチンを国をあげてつくったのに、こんどは豚インフルエンザだという。
 この塩梅だと次は山羊、馬・・・となるんだろうね。大雑把に言っても人間の世代交代は20年くらい、最近の日本だと30過ぎても未婚というのはざらだ。
 それに比べてよくわからないが細菌とかウィルスとか微生物とかの世代交代は日単位とか、時間単位とかの早さ。
だから。
 薬ではこの追いかけっこに勝てないよ。薬品会社は儲けがあるけど。
  大昔、医者がいなかったときでも絶滅しないで人類は増え続けた。科学が自然の摂理を制御して安心できる生活環境をととのえれば、人の思惑を超える真理の実在との間での相克というものがある。
 そして、人の思惑は限界を乗り越えようとしてより大きな自然との矛盾を増幅させていく気がする。
 
 どこかに、そのエネルギーを逃がしてやるところ、折り合いをつけておくところがいるように思う。
 
殿様蛙 
 田植えが終わった。若い苗にはたっぷりと水がいる。そして、根っ子がしっかりしていない苗が風で流れないように水面からチョコッとだけ若緑の2、3枚の葉を出しておく。
そんな田圃では夜になれば蛙の声で賑やかとなる。富山県の呉東(大まかには神通川から東側)に殿様蛙がいなくなったという新聞記事を見たのは2年位前。
 そうかと思って探して見ればこの辺でも見なくなったなと思っていた。新潟県の知人も青サギに食べられて殿様がいないといっていた。

 それが今年いた。白昼堂々と2つ3つ、私のうちの背戸の田圃に中くらいのと大きめのが叢でじっとしている。
 「おお、久しぶりだな。子供のころのように追っかけたりはしないけどお前さんの見事なジャンプたまに見せてくれよ。」とその時私は目で語りかけた。

 あれから一週間はたっただろう。
 今、この闇夜の畦で佇む私を、水の中から顔出して殿様は見ているかもしれない。
 「なあ、おい、おまえと私は50年ほど前から友達だったな。これからもそうだな。」
 私はそうつぶやいた。
 
歴史
 昔話のことを歴史という。
 
 その時々の有名人たちがした事の記録だ。
 まあ、記録の残っていることのほうが少ないのだが大方は勝ち組が書いたことである。


 義経、弁慶だの武田信玄だの豊臣秀吉だの織田信長だの西郷隆盛だのといったところが人気の人々なのだろうが、私達、平民の先祖がどうかという事はちょろりと触れてある程度で知る由もない。


  近頃では高校生に日本人の魂を教えるために高校での日本史を必修科目にするとか言うところがあちこちにあるという。 
 それはそれでよいのだが、ほんの60年~100年ほど前まで掘っ立て小屋にすみ、食うや食わずで忍従の日々を生き、その中で子を育て、土を掘り、水路を作り、道を整備し、・・・・・ 、いまのわれ等の生活の根本を作った殆どの無名の人々のありようというものを伝えてこそ昔話が若人の糧となるのではないかと思う。
 
 中央政治は歴史の部分に過ぎないのだ。


. [曇り]

 ふと有名な詩の一節を思い出した。調べたら山村暮鳥という人の作品だった。
 ・・・・・・
おうい雲よ
ゆうゆうと
馬鹿にのんきさうぢやないか
どこまでいくんか
ずつと磐城平の方までゆくんか

・・・(略)・・・


 これを小さな声で言ってみる。
 そしたらスーっと力が抜けた。
よし俺も暮鳥気取りでひとつひねってみるか。
 
.
臓器移植法1


 
 国会で臓器移植法の議論があって法律が改められるのだそうだ。子供の臓器移植は子供のものでなくてはだめなんだそうで脳死した他の
子供の臓器があれば助かる小さな命がいっぱいあるのだそうだ。
 たしかに幼児が病の責め苦に苦しんでいるのを見るに耐えない親の心情というものはあるだろう。
しかし
 ・・・ 私には人の臓で生きるイノチへの抵抗がある・・・・  自分というのはなんであろうか


.
臓器移植法 
 重要法案臓器移植法が成立した。マスゾエ厚生労働大臣が国会で深々と頭を下げるニュースが流れていた。生きると死ぬの境はどこにあるのかという議論を要求する現代科学。
 何か一本の線を引いて左側に「生きる」と書いて右端にしるしを着け「完全死」と書く。
 そしてその途中に「心臓が止まった」とか「脳死」とか書いてこの方がより死に近いのだとかそうでないとかいう議論だ。 
  アマゾンに住むある種族の娘は子供を生んだらその子を生かすか殺すか自分で決めなくてはならないと言う話を聞いたことがある。
 ・・・母が生んだ児の生死を決める。
 我々の国の法律が暗に示す死の定義に基づく判断と行為がその母のする判断より数等優れていると言えるのだろうか。
 
太陽と雲 
 8月も1/3過ぎたというのに今日も明日も低く垂れ込めた曇り空。そして雨。
 さすような夏の日差しが恋しいくらいの長雨だ。3週間以上はこんな天気が続いている。6、7日前に久々の夕焼けを見たときはなぜかほっとしたものだがそれから又この雨模様。天気予報のおねえさんが説明するのは今年は太平洋高気圧が弱くて・・・・
ペルー沖の海水温が低いとか高いとか・・・といった内容だが、どうも聞いているうちに自信たっぷりの解説にもかかわらずあとだしジャンケンみたいで聞く気が無くなって来る。


 天気のことは難しく説明できないこともイッパイあって、しかし「分かりません。」と言えないのだろう。思い切って一度くらい「イエス・ウィーキャン ノット」という予報士がでてこないかな。
 ギラギラ太陽どこいった。 おいらに日焼けをさせとくれ。


 
親孝行
 体力をつけようと隣町のプールへ向ったが休み だった。仕方なく帰る途中に書店にフラッと立ち寄った。文庫本をパラパラとめくって見る。10分位そうしていただろうか、どれをみても代わり映えしないようで帰ろうとした時、目に留まった本の題名が「99のなみだ」。
表紙は2つくらいだろうか、涙を流す女の子の写真だ。なんともいえぬかわいらしさだ。表紙をめくったカバーの折り返しにこう書いてあった。

 「それから、とうちゃん・・・・・」
 父親の声が震えた。
 「こんな親不孝して・・・ごめん。」


 祖父がくるりと振り返る。
後ろにいた大樹を突き飛ばすようにベッドへと駆け戻った。
 下駄が抜けてしまったことにも気づかない。
「バカもんがっ!」
 大声で怒鳴った後、祖父はその大きく分厚い手で父親の頭をわしわしと撫でた。
「何が親不孝か?どこが親不孝か?子供はな、生まれてきてくれただけでもう一生分の孝行をしてんだべ。あやまったりすんな!謝ったりしたらいけねえず。」

 その本を買い、枕元においてそれを読む。自らの親不孝を亡き父に詫び、子供達が元気であることに感謝した。溢れる涙を女房に気づかれまいとして目をつむり布団をかぶっていつしか眠りに落ちた。




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相対性理論 

 アインシュタインという人。
 天才。
 相対性理論とか言うナンカえらい発見をした人やそうな。

 それから先は?相対性理論
それから先を知っている人となると急に減る。
 コンビニで買った相対性理論のオハナシの本を読むと、何でも
光の速度に近づけば時間はゆっくり流れるのだそうだ。
 浦島太郎のお話も宇宙船「竜宮城号」に浦島太郎を連れて行
ったということならば作り話でないような?


 宇宙船に乗って速度を増し、光速に近付けば近付くほど重力が増加し
光より早く飛ぶことが出来ないとか、重力がやたらと大きい物体はその
周囲の空間を曲げてしまうとか
 ブラックホールは巨大な重力の場で空間が曲げられ光が脱出できなくな
るとか
 一見狂人の妄想のようであるがこういった事が事実として確かめられてい
ると言うのだ。
 
 今、いとしのカアチャンにでもこんな話をすればなかなか理解してもらえない
感じがする。というより無視されそうだ。
 何事も本当のことを知ることは不可能だ。それに近づくことはほんの少数の人
だけが出来ること。それはそれでいいのだが多くの天才的な先達の業績のひと
つだけでも理解しようと勤めるとそこに楽しみもある。 


  最近は クイズ番組がいっぱいある。  


 司会者が言う
 「それでは問題です。アインシュタインといえば? 」
 「相対性理論」とこたえる。
 「正解です。それではインテリチームに50ポイント差し上げましょう。」


 こんな受験勉強の延長線上にあるようなクイズ番組がどのチャンネルにも
溢れている。しかし目次と索引の羅列のような知識を披露し得意顔の人には
その命題に命を捧げた人の魂の混沌に思いをいたすことは無いのだろう。
 
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ノーベル賞事業仕分け
二月ほど前、国の補正予算について事業仕分けというのがあった。目的は予算を有効に使うこと。その中の二つの対照的な光景が印象に残った。ひとつは田中耕一さんがうつむきがちにムダ削減の追求を受ける姿。おそらく議論は下手なのだろう。もうひとつは科学技術予算(特にスーパーコンピュータ)の削減に抗議発表するする小林誠さんはじめ何人かのノーベル賞受賞者達。「スーパーコンピュータは世界一でなけねばならないのか、世界二でだめなのか。」と言った民主党のレンホウとかいうギインが気に食わなかったのかボロクソだった。なんで地味な田中さんが仕分けの会場にいたのかわからないが追求されているカワイソウナ普通のノーベルおじさんの姿とノーベル受賞者という圧力団体の力をみせつけた記者会見の博士達。田中さんも圧力団体の一員なのだろうか?。そして功を奏してスーパーコンピュータは高度な政治的判断?によって予算化された。


 食うや食わずの浮浪者(今はホームレスとか言う。)が、あるいは国中に派遣切りが増え続ける世の中なのだ。博士達よ、そこは少しは譲ってはくれまいか。