癌という病気

一緒に温泉に行って酒を酌み交わしながら
 同級生が癌であることを明かした
 2年前 悪性リンパ腫といわれたそうである
 おしまいかとそのとき思ったそうだが 2年たっても生きていて
 それどころか 普通に生活している。昔からの女好きで
 コンパニオンの姐さんに さかんに ちょっかいを出す。
 ただ、心の隅に ちょっとは引っかかるところがあるらしく そんな風なことを言ったりしていた。
 医学が進歩したゆえか
 癌といっても お陀仏といった感覚にならなくなった。私の周りに 同級生にも 一つ二つ年上の人にも
まだ50にもなってない人にも癌という人はいて 
癌だという話を聞いて2年以上は生きている。
 どうにもならぬ死の宣告というイメージが一般にも薄らいできているかもしれない。
 子供の頃
 婆ちゃんに 何度も聞いて 一度も 答えてもらえなかった 問い
 なんで死ぬ?
 癌という病気は 否応なしに その問いを 当人に 投げかけてくることの出来る病であった。
 今はピンピンしていて何の問題もないという人でもその宣告を受ければ 三途の川の向こうが
垣間見えたであろうが 今や 必ずしもそうではなくなった。
 可能性が芽生え、死は克服されるかもしれないという思いが、現実化してきたからだ。
私たちに 自覚された生きる可能性は お陀仏になる覚悟を先延ばしする免罪符のようだ。
 ただ、先延ばししても 先延ばししても 死は必ず 訪れる。
 一日余計に生きることが 何ほどのことか分からぬままに 生きることが最大の価値と思うて
生きてきたが
死ぬのだという自覚を 心の奥底より呼び戻し 畏れの海に浮かぶ今であることを思い暮らせば
人を踏みつけにする理由もなくなり、各々が ともにあることを 微笑みによって わかちあえることにならないだろうか
医学は 必ず癌を克服するであろう。
 しかし 
 癌の持つ もう一つの側面には
「死を自覚した上で一日一日を暮らす中で、無数の命に囲まれて生きてきた幸い
 を感じる時を与える。」ということがあるような気がする。
 それを 私たちが 奪われることになるのであろう。 
 死を自覚するところに 幸いも あるように思うことがある。[やや欠け月]