選挙の候補者

 選挙というのはおかしなものである。清き一票とやらを 私たちは 投票しなければならない。私の市では市会議員の選挙が10月にある。
 いつものように候補者が出てくるのだが、私の住む地区から議員を出そうということで人選が自治振興会で進められた。どういうやり方で決まったかは知らないが あいかわらず昔懐かしい年寄り型の候補者選びのようである。
 とにかく、今日、若い人で生活不安定の議員なんぞになろうという人は稀少人物である。結果として定年過ぎたとか間近の候補者に落ち着くパターン。そういうわけだから もし立候補しても筋道たった政策などない。 金太郎飴のように 「地元のためにがんばります。地方の活性化が必要です。老人福祉、教育問題をがんばります。」程度の思いつく言葉を羅列したくらいのものである。
 地方衰退のこの時代に その理由を考察し、10年先の未来を展望して こういったことを進める。なんて議論は皆無である。更に加えて、選挙というものが 民主主義をやっていると私たちが錯覚するための 実は ただのセレモニーにすぎないことは 多くの人が 思っていることではないだろうか。
 事実、候補者と一度でも話をした人がどれだけいるか。選挙とは見ず知らずの人を 
いい人だ、
実力がある人だ、
誠実で実務能力に優れているひとだ
などと候補者を推薦した人たちの宣伝文句を鵜呑みにすることから始まる。大体その候補者の推薦人に名前を連ねている人でも候補者のことをろくに知らないことが多いのだから
 投票用紙に名前を書いたので信任したことになるというのは何ほどの意味のあることでもないようなことだ。
 それでも 法律というのが あって そういうあやふやな 投票行為の結果が 大きな意思決定と連動している。
 コメつくりなら どの種 を選び いつそれを撒き 田植えはいつで 水管理はどうする  ということは 投票で決めることではない。いくつかの適切な方法が採用されて実行され収穫に結びつくのだが 
 民主主義の担い手である候補者のことをほとんど知らないで選択する民主主義のルールとは コメつくりの方法をあまりよく知らない田舎育ちの青年が無手勝流にコメつくりをするようなところがある。
 従って、こういう人で構成される議会というのははなはだ怪しげな存在である。選挙以外の方法が見つからぬものなら、大きな自治の課題に対しては住民の直接投票などの制度をもっと充実させて・・・・・
  とここまで書いて 反省した。大体、そんなことしても形作って魂入れずになってしまうに違いない。私の周りの人を見ていれば分かる。
 めんどうなことは議員にやってもらえばいいのだ。
 そのために投票したのだ。
 私は仕事で忙しいのだ。       とみな考えている。
 民主主義という言葉とは 程遠い 身勝手という人の心の現実が 地に根を下ろしてしまっている。
 民主主義とは響きのよい ただの 言葉に過ぎぬのかもしれない。
 ただ、あまりに不完全なこの選挙というやり方にもいいところがある。それは ときどき ろくでもない候補者が当選することがあって そういう人は ろくでもない人物であるがゆえに型にはまらない 面白い提案や なあなあの議会に 撹乱要因となって 新しい発想や希望をもたらす可能性があるという点だ。 [ふらふら]