ハイヒール

 平成25年1月16日
 東京でも雪が降ることがある。滑って転んで怪我をした人も沢山いた日の翌日のニュースは 道路は凍結しているから云々とやっていたが インタビューに 滑りますといいながら 通勤する 女達。  ハイヒールはいて・・・・
 昼になれば雪も解けると踏んでのことだろうが 雪が当たり前の越中富山の散居村に住む爺にとって 理解に苦しむ行動だ。
 雪のときは長靴を履くもんだと思っているが そういう 方程式を 何言ってんの と あっさりと否定してしまう女達の勇気ある行動に ただ 首を傾げるよりない。
 おしゃれ は 安全に勝る。それが彼女達が作り出した 最新の方程式なんだろう。
 まことにこの爺にとってオナゴというのは いつまでたっても理解の及ばぬ存在なのだ。

 そういう都会の街中を颯爽と歩く キャリヤーウウマン に とって ハイヒールというのは
必要不可欠なもののように見える。
   人間の足は元々 地べたに ぺたりとして 接地するように出来ていて
安定した形でその姿勢を維持するのだが、踵の高くて細いその形は 立っているだけでも、間違いなく 足首に不自然な力のかけ方をする。
 まして歩くとなると 予測不能な 力が 思いがけない方向に集中的に加わったりするので人の運動(歩行)に様々な不都合を惹き起こすと思うのだが そんなことは価値として取るに足らぬことのようだ。

 
 なぜハイヒールなのだろうか
 背が高イということが 大切なのだろうか 或いは 足が長く見えるということが大切なのだろうか
 それをはいて歩けば 歩く姿が 美しく見えるとでも言うのだろうか
 この実に不思議な靴。無題 (180x144) (90x72).jpg
 ミスユニバアス や ミス〇〇  美魔女  ・・・  きわどい水着に ハイヒールはいて歩く。
 海水浴へ行っても ハイヒールはいて歩く 水着の美女は見たことはないが 
 雑誌や写真や映像には出てくる水着とハイヒール???
 水着に下駄とか ズック とか サンダルとか履いていたら ミスコンテストにならないのだろうか。おちてしまうのだろうか。
 ハイヒールが現代の女性美に 不可欠の要素だとしたら それは 男の視線というものを意識している面もあるだろう。
 その形が足元にあるとき 男が 格別の感覚になることが計算されて出来上がった靴の最終形態がハイヒールということなのだろうか。

 裸足で歩いていたヒトが 草履 や 靴を履くようになり 行き着いた靴の最終進化の形が先の尖った踵の高く細い、そして いかにも歩行には不自然な形のそれは 日常的に履くに足る 有難味というものを 彼女達に提供しているのだろうか。
 私にはそうは思えないのだが ・・・
 蛇足;私の祖父は福野(現。富山県南砺市福野)から金沢まで片道三十キロ以上の距離を裸足で往復したと父から聞いたことがある。昭和の初期の話である。今のように舗装はされてない道である。その時代、田舎ではまだ靴を履いてないことは 当たり前のことだったのかもしれない。90年位前の話だ。長い歴史から見れば、つい最近のことといってもいい。
 ところが、靴を履くようになって急速に足の裏はやわになった。IMG_2655 (40x45).jpg
 アスファルト舗装の道でも今の私たちは そんなには歩けないだろう。
 銭湯によっては 石の上を歩いて足の裏に刺激を与えるようにしてあったりする。元々は持っていた裸足で歩くことの出来る能力を封印することによって ハイヒール を履いて歩けるように適応してきた足。

 こうしてヒトが作る時代は 文明が作る便利とか 安全とか 快適とか 人口美とか 
 そういうものの獲得するたびに 天賦の 才 を 一つ一つ ヒトから奪い去っていく
 なにがどうなってるのだ 高度に発達した文明社会にもし行き着いたとしたら
 その時は、自分に代わって考えてくれる便利な道具(最近のヒトはツールとか呼んでるそうだが)もでてくるだろう。
そして ヒトは考えることもやめてしまうだろう。仏になるとはそう言う事かも知れないが。