暴力と柔道

平成24年2月2日
 大阪の某高校の生徒が先生から体罰を受けたことで自殺したという。連日、シンブン、テレビ、ネットでそのことについて
 悪い教師だ、体罰は良くない
 暴力だ
、はては橋下市長の入試中止発言、教育委員会の 申し訳ございませんでした会見と 
 毎年繰り返される 騒ぎ だ。
 そういうさ中、今度は女子柔道有力選手が監督の告発。熱意の余り?、勇み足ということらしい。
 この一連の騒ぎで思うのは 恐らくは こういったことは日本中のいたるところであるということ。そして、それはこれまで多くの日本人が受け入れてきたことだということだ。
 おそらく、それでも私が父から聞いた戦前の(昭和20年以前)体罰とかから比べればとても体罰と呼べるものではないということだ。当時、日本の多くの若者が徴兵された。私の父も二等兵を経験し、戦地へ向かう前に敗戦となった。
 時々、話すともなく話した軍隊でのいじめ(懲罰)。
 私の育った時代に徴兵はなくなり、そういう経験をせずに爺さんになった。

 それでも、子供の頃は父にこっぴどくやられたものだ。それで痛み を 知った。痛かったから横着な心や、意地悪な心を抑えることもアッタノダと思う。 暴力にはそれでしか学ぶことの出来ない部分がある。理性的に話しても それを受け入れぬ人の心の不条理というものがある。
 私が親になったとき、父とは違う民主的な優しい親であろうとした。
 息子が小学校の2年のときに問題を起こしたことがあった。私は息子をビンタした。
 何回か叩いた。非を認めていた息子は涙を流し、痛みに耐えていた。そのとき私も泣いた。
 それからそういう類の問題はなくなった。暴力は避けたいが言葉だけでそうなったであろうか。
 今の子供の多くは親から暴力を受けることなどないだろう。だから大人が暴力と思わないことでも暴力と受け止められることがあるかもしれない。親から命令口調で育てられた世代と違いちょっとしたことでそれを暴言と受け止められたりもするのだ。
 しかも、それぞれの問題にはシドーするほうとされるほうの固有の部分もある。

 暴力によるシドーはいいか悪いかいったら 悪いと答えていれば名誉ある地位にいる人は無難であろう。
 彼らは知っているのだ。そして、これまで口をつぐんできた。それにもかかわらず、「良い指導者は暴力を必要としない。」という。
 そういう類の意見の大合唱だ。

 指導は人と人との係わり合いの中で進められるのだからそこに 人と人との確執というものも生まれる。それを乗り越えて権力的姿勢を見せぬことのできる人間がどれだけいるというのだろう。
 
 時に、手が出ることがあるかも知れぬというのが人間だ。
 どの報道を見ても 同じ方向(当事者を厳罰に処す)を向いている。
 そこまで追い詰めることがベストだとはとても思えない。
  晒し者にして ワルイヤツ を いたぶるのも それを行った  ワルイヤツ の やったことと どう違うというのだろう。
 
 菊池寛 「恩讐の彼方に」  の 小説では そういう追求を超えたところに 見えるものがあると語っている。
 そうはならぬものであろうか。