かあちゃん

       平成20年9月24日 
昔、高校生だったころ、田舎のど真ん中にいた私は同級生とする会話の中で母親のことを「かあちゃん」と呼べなくなりつつあった。
「オカアサン」と呼ぶのが教養ある育ちの良い人間の常識のように感じていた。小学校のときでもヨイトコノ子はかあちゃんとは呼ばなかったが、特に女はそういう
傾向があった。それが高校生ともなると父母、おかあさんとよぶのが貧乏人の子供でない、あるいはドン百姓の子でない多少都会的センスを持った人間に必要な言葉使いだと思うようになった。
こどもといえば子供だが 馬鹿なことを考えていたものだ。
時を経て、
 今は かあちゃん と呼んでいる。79になったけど 腰は曲がってしもたけど ばあちゃん ではない。 
おらの かあちゃん

        平成20年12月1日 
よく晴れた。
自転車に空気を入れてくれという。
「昼からインフルエンザの予防注射をしにいく。」という。車に乗るのではなく自分の足で自転車をこいで2キロ以上向うの医者まで行くかあちゃん。車にのせてあげるといっても自分で行くという。かあちゃんは自転車で

  ・・・・ 3時間以上たった、夕方4時半、もうすぐ日が傾いて西の安居山に沈みかける。
まだ戻らないので迎えにいこうと、私は自転車に乗ってカアチャンがさっき行った自転車道を町へ向かう。すれ違ったのは秋田犬を連れた人のみ。心当たりのショッピングセンターに自転車を探すがぐるり一周しても見当たらず。
 めったなことは無いのだが、これ以上の心当たりも無い。 それでも、もしかしてと思いキョロキョロしながら着た道を引き返す。おや、遠方に見えるのは・・・・、母ちゃんではないか。 オーバーを着て帽子をかぶっているが私にはわかった。自転車の後に買い物をくくりつけているその人のことが。
 今、沈む寸前の夕日を受けて、かあちゃんがちいさく躍動して見えた。

        平成21年5月30日 
かあちゃんと手を繋いだ。腰が曲がり、膝が痛いので何かにつかまれば歩きやすいのだ。
 水気の無いカアチャンの手は畑仕事でかさかさだ。昔は私がカアチャンに連れられ上を向いて話したが、今カアチャンは小さくなった。 けれどもその温い手はでかくてしっかりと私の手を握り返す。図太い百姓の手だ。