ふところ

 ふところ(懐)とかうつわ(器)とか近頃はあまり使われなくなった言葉だ。それは、懐が深いとか器が大きいとかいったふうに使われた。

 科学が人の欲を満たす大きな力となってきた過程で何事にも精度が重要視されるようになってきた。そしてそれゆえの分類の手法というのが厳格になった。数学はその厳格さを実現する基礎的な思想であり方法を提供してきたと思う。微小な違いも数学的には数値表現が可能だからだ。
 理数的なことが苦手な人や嫌いな人でも科学的厳格さの妙にその論法に次第に引きずり込まれている。
 今、マスコミでもインターネット上でも大いに盛り上がってることは微小な違いを議論し相手を論難することだ。

 大臣が○○〇発言をしたとか、大関八百長相撲がどうのとか、高校野球の部員がお盆にタバコをすっていたとか、有名役者が殴られて舞台に穴を開けたとか、IT社長が不正な株操作でぼろもうけしたとか・・・そして、最初に噂話を広めた者だけが正義を語る。
 誰かが先手を打って評価基準を決める。(機先を制すという事だろう。)議論はその基準に基づいて進展する。先手を打った以上、相手は無防備であり先手の論理に対抗する準備がないのが普通であり、結論は大方先手必勝となる。大臣には清廉潔白、大関横綱には品格と伝統を重んじる気風、高校野球には高校生らしさ、有名役者には大人の対応、IT社長には法令遵守コンプライアンス)が標準装備されねばならぬこととなる。

 こういう考え方を基本として対象者を評価する基準は定まり少しばかり条件値を満たせねば、その地位に留まることは社会的に許せぬというわけである。その評価の網にかかった瞬間、逃れることは不可能に近い。

 しかし、今この時を考えるに評価に厳格さを示せても、未来について誰がその評価がまっとうだといえるだろうか。こういった評価は限定的なのだ。それが大抵の事に適用されるなどと思うのは妄信というものだ。

 かつて子供であった一人一人は多くの過ちを犯したであろう。どれほど自分の潔癖を確信している人でもそうだと思う。それを大人が見てみぬふりをしてきたのだ。いや大人になってからもそうであろう。仏の顔も三度というのは三度は許すという事だ。
 ひとは皆、生身である。
 生身である故に慢心し、強欲であり、優しくもあり、誘惑に負ける。
 立場という言葉がある。それは社会における役割という意味であろう。立場は生身を押さえるという事に通ずる。高名であればその思いは強く意識されているだろう。しかし、それでも社会というのが多少の目こぼしをしなくてはその立場を担う人が劣化していくのではないか。
 社会が懐の深さを持たないと、一人1人が待つ力と寛容な心を持ち合わせていないと、大きな羽ばたきにはならないのではないか