結い

  かつて、今のようにモノがなかった頃、高出力の建設機械も、農業機械も、高速道路も、電燈でさへもなかった頃、人々は田植えとか、道の補修とか、普請とか、白川や五箇山にかろうじて残る茅葺屋根の葺き替え作業とかで、1人や二人で手に負えないことは人と人が助け合って生きる生き方をしていた。
 私が少年の頃、村では協同苗代、協同田植えといって各家から出て田植えをした。新築の家があればその家では近所から何人も頼まれて働き、それを見に行く村の人や隣村の人にコワ飯(赤飯)の超大型おにぎりをくばったものだ。村祭りはまさしく祭礼であった。
 恐らくそれに類することは、どこの地方にもあった、いや江戸や京都や大阪にもあった。人と人とが助け合わないと生きていけないこの国の庶民の生き方であり、この島国日本に生きた人の心の有り様であったのではないだろうか。
 それが私が生きたこの60年で大方消え去ろうとしている。教育問題を論ずる多くの人がこの国の教育の有り様を嘆いているが、この古き時代の助け合う生き方が絶滅寸前なことを嘆いているのではないだろう。
 彼らの嘆きは学力がどうのこうのという事で無いかと推測するが、そういう点では日本の教育というのは完全に成功している。このちっぽけな島国にGNP世界3位の力がどうしてあるのか。他を凌駕する知識とそれを駆使する多くに人々が存在するからに他ならない。
 しかし、命としての個人、弱いもの同士、時々は助け合ってことに当たる知恵と忍耐と悦びの体験を喪失してしまったことは大いなる失敗であったのではないか。
 人は祖先の歴史的ななにがしかを受け継ぎ、次の時代に歴史的ななにがしかを伝える存在であろう。伝えることとは人が生きていくうえで何を大切にしていかねばならないかという事であろう。人は父母より生まれる。
 私は全ての根本はここにあるのだと思う。若干の例外を除いて、コスト計算ではまことに理解不能な子育てという行為をする親。
 子はこの行為を理解出来にくいのかもしれない。 明らかに自分には子がいないのだから理解しようがないといえる。しかし、この親の行為を理解しようと思っているかもしれない。
 親の心を伝えようとする者は親ではない。祖父母であり近隣の人であり親類縁者であり父母の交流ある人たちである。そういう周辺の人々を失ってしまったのが技術万能時代に生きる私達であり子供達だ。
 古い時代のしくみは復活はさせられないだろうが その生活の中にあった 共生の思い。それを切り捨ててきた生活の有り様を今の暮らしに 蘇生させられぬものかと思う。
 豊かで何でも持っている人は助け合う必要がないのだからどだい無理な話なんだろうか。