タッチャンの物語 その1

平成25年3月1日
はじめに
 これは今は83歳になるある婆ちゃん(タッチャン)の生きてきた道のりの断片を拾い綴った話だ。
 取るに足らぬ話だが私には息子としてこれを書きとめておいて、彼女に愛されたものたちに伝える役目があるのだ。
 もし、関わりのない人の中にも似たような話があるならば、それを知る人たちによって他の多くのどこにでもいる人の物語を書き残してもらえたらと思う。

 昭和30年代 富山県東砺波郡福野町
 
 ヨメサ(嫁さ)
 タッチャンは分家の嫁だ。この地方ではヨメサと呼ぶ。
 田圃と家事と子育てと工場勤務をすべてこなさねばならない。
 工場へは自転車に乗って 2キロの道。
 早番は5時から 日勤は8時から 遅番は2時からだったと思う。トミヤマ紡績(仮称)は女達の働き場所。町の多くの女達も働きに行った。
 毎年、北海道から中卒の女の子達が入社してきた。その子達はみな家が貧しく家計を助ける為に日本のへそのような場所にあるこの田舎町へ仕事をしに来た。会社は彼女達を寄宿舎に住まわせ、定時制高校へ通わせた。
 会社の中には講堂があり舞台があり、年に一度社員による演芸会もあった。
 日本の高度成長経済の時代、彼女達の安い労働が会社にとって多少の出費があっても彼女達の心をつなぎとめておく必要からであった。
 もちろん、この地方の文化、伝統、気質と経営者の度量もあったであろうが経済的理由がもっとも大きなものであったであろう。
 タッチャンは、その子たちと一緒に働いた。今、この国では中国人労働者を研修生と称して日本人の半分以下の給料で雇う。それでも故郷へ仕送りをする彼らの姿は当時の女の子たちの姿と重なる。年の離れた姉のような立場で彼女たちの身の上話をタッちゃんは聞いた。時々、そんなことを、かわいそうな子供たちの話として話した。今でいう経済格差は当時東北北海道の父ちゃんたちの話として出稼ぎ労働の話として甚だしいものであったろう。
 しかし、それは大人たちだけではなく中学を卒業したばかりの乙女達の 話として
 こんな富山の田舎町にもあったのだ。
 しかし、そういう娘達をかわいそうというタッちゃんだって暮らし向きが楽であったわけではないし交代勤務が終われば農作業、もちろん子供の面倒や家事がある。救いは姑がきかん気の人でスッキリとものを言う人であったが、あっけらかんとして根に持たない人であったこと、本家や近所の人たちが彼女に同情的に接してくれたことでなかったかと話のフシブシから推察する。
 何しろ、山の出身とはいえ、大きな家の娘が貧乏な百姓の嫁になったのだから
苦労しているというのが多くの人たちの見解であったのかもしれない。 だから、近所の人の多くは時々ちょっとした気遣いを見せてくれるのであった。
(私には、生来の明るさというものも、そういう人々の行為を誘ったのだと思う。邪気の少ないことが人に多くのものをもたらすのではないだろうか。)
 ビロドのおばちゃん
 
ビロードというのをご存知だろうか。今の若い人にはなじみがないと思う。
 私もうまく説明できないが木綿とか絹とかいう衣服の生地の一つだ。
 タッチャンが会社から自転車で帰宅するときに小学生達がこう呼んで囃し立てた。「ビロドのおばちゃんがきた。」
 貧乏だったのでいつもおんなじビロードの服を着てたのだ。
 老いた今、当時のことを振り返って懐かしそうに語るタッチャンは楽しげである。[やや欠け月]
  私は思う、きっとビロドのおばちゃんはそんな小僧達に手を振って答えたのではなかったろうか。その子たちが大人になって時々ビロドのおばちゃんを思い出せるほどに・・・・・・
 タッチャンがしていた交代勤務について特に早番と遅番についてすこし述べておこう。
 早番:冬
 朝3時起床 雪が降る。2キロの雪道を歩いて行かねばならない。今のような除雪はない。除雪があるようになっても早朝にはあいてない。吹雪の日などは冬山を歩くような日もあったと思う。やっとの思いで汗だくになって会社につき仕事をする。 
 帰宅は4時ごろだったろうか、(もっと遅かったかもしれない。)帰りは朝よりは楽に帰れたかもしれない。しばらくすれば家事。口うるさくはなかったが、時々は姑(私の祖母)は待っていたかのように仕事を言いつける。それをこなし、夕ご飯を片付け、・・・・就寝。
    春夏秋 
 朝4時起床 今のような舗装になったのは昭和40年代。ところどころぬかるみのある道を自転車で行く。しかし自転車に乗れるので少しは楽である。しかしやはり雨風の日がある。帰宅は3時ごろ。しかし、この頃になれば百姓が始まる。春は田植えに田の草取り、夏は畦草刈り、秋は稲刈りにイネ運び脱穀、籾摺りと仕事が待っていた。
 遅番:冬
  雪の日は仕事で疲れた体で歩いて帰宅。雪が深ければ翌日になる日もある。冬の日帰宅して、布団にもぐりこんだことだろう。しかし冷え切った体で総簡単に寝付かれなかったのではなかったろうか。
    春夏秋
 このころ犬はつながれていない家が多かった。遅番のときは特にそういう犬に何度も追われ、噛み付かれたという。

 付記:
今年、トミヤマ紡績の懐かしいぎざぎざのノコギリ屋根の工場は解体され更地となってしまった。私たちの町のシンボルのようなその工場はその痕跡さへものこしてはいない。