笠ヶ岳 山行記(冥途への土産話)4/3
平成29年9月3日(日) 朝は晴れている。
縦走路を行けば後から来る若者たちがあっという間に追い越していく。
一昨日は妻と義母を自動車で20分あまりの石動(イスルギ)駅までお迎えに行く。
妻はマジックで大書きした到着時間の紙を冷蔵庫に張っていたのだが、夕方、畑仕事をしていて気が付けば記憶の『お迎えに行く時間』なっている。夫(それ)!大変とばかりに急ぎ記憶の予定時間に駅到着。
駅にはイスルギ高校生たちがぽつぽついる。その中に武井咲に似たスラリとした美人がいる。
タイプ!
この年になってもまだ、そういう娘を見つめるのは気恥ずかしい。・・・ウブ・・・・・・・ナ・・・・ジジ・・・
3,4m離れて立つその娘を見るともなく見ないともなく数分経てば、迎えが来てその子は行ってしまった。
・・・・・ガッカリ!・・・・セメテアト5フン ・・・・・・・・
それから暫くしてキシャ(年寄なので電車と呼ばずキシャと呼ぶ癖になっている)が来て主に通学の高校生たちが改札を通ってくる。 あれっ、いない。
田舎の駅でもこの時間帯はキシャの本数が多い。次だったかと思い、15分後を待つ。次もまた同じく、降りてこず、さすがにこまった。電話で確認しようと思ったがケータイを置いてきた。
以前のように公衆電話というのも見当たらない。
持つものを身に着けてないと結構不便な時代なのだ。・・・・この後どうなったかは書かないことにする。
昨日は笠ヶ岳後遺症筋肉痛も90%回復となり畑作りに勤(いそ)しんだので、今朝はちょっとだけ動きたくない気分だ。
10時から里芋の泥掛けをすることにして、しばらくの間を使い笠ヶ岳山荘到着以降の印象深かったことどもの話を記しておこう。
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山荘到着時、何処から着て、どこへ行くかを尋ねられた。
「笠新道からきて、下山は笠ヶ岳を過ぎてクリヤ谷から下山する。」と答えると、「えっ、長いですよ。すごく長いですよ。」という。登ってきた私を見て経験的に無理そうに見えたのだろう。
「そうですか。」とこたえると
「大変ですよ。」とまたいう。
其ののち「あっ、お客さんリュックの後ろの鈴、ほかのお客さんの迷惑になりますから、しまっていただけますか。小屋の中熊出ませんから。」と冗談っぽくいう。
「ああ、わかったよ。」と答えると、「笠新道なら熊出ませんけど、クリヤ谷出ますよ。」と追い打ちをかける。その晩、来た道を戻るか、クリヤ谷か二者択一で揺れた心で寝つきが悪かった。
翌朝、小雨と風。これではと思いリュックを山荘に預けて山頂へ向かうこととした。
頂上に来た時、誰一人いなかった。前方100mも見えない。クリヤ谷経路の危険を再確認することとなった。もと来た道が下山経路となった。
撮影、(6:45)
頂上への少し手前は比較的広く小さな祠がある。
撮影、(6:45)
山小屋から下りてくると岩にサヨナラの文字、こういうのはいい。登りの時は山荘手前のキャンプ地に「ガンバレ」というのがあって最後の力を振り絞れた。こういうのは結構効くんです。
撮影、(7:19)
下山時縦走路で見つけた岩。綺麗な海底生物の亡骸?
(写真では美しさがよくわからないが)太古の昔、ここが海の底だったあかしであろうか。
撮影、(7:20)
抜戸岩と呼ばれる場所。前方の両側の岩の間を通り抜ける。
撮影、(7:45)
縦走路を行けば後から来る若者たちがあっという間に追い越していく。
その姿のまぶしいこと! ・・・・・ウラヤマシイ・・・・・・
頂上から1時間ほどして私より10歳くらいは年上と思われる夫婦に追いついた。そして、笠新道分岐で休憩中に二人は追い越していった。
杓子平へは急坂となる上に視界不良でどこを歩いているかわからない。先の夫婦に追いつき、先に行く。
本当に、登った道を下りているだろうか分からなくなる程だ。ただひたすら歩き、杓子平の始まりにあった標識を確認した時に休憩中の若者がいた。
「ここから先も大変ですね。」、そういって二人は下りて行った。
山荘の弁当をここでとる。
結構うまい。空腹もあるが山での弁当としてはかなりいいほうだと思った。
ここでは休憩15分くらいだったろうか。しばらくして、あれよあれよという間にガスが切れ杓子平と尾根筋が見えてきた。
こうなると気分も変わる。よしと笠新道の急坂に踏み込む。
休憩中も、老夫婦は姿を見せなかった。
撮影、(10:19)
以下、長くて、長くて忍の一字の下山。沢の音が聞こえだし一時の安ど感も、行けども行けども続く急坂。
こんな処をどうやって登ってきたのだと思い思い下る。
と、笠新道の入り口が突然に視界に入った。
ついた! 2時半ごろだっただろうか。およそ7時間半くらいかかった。
双六方面よりポツポツと登山者が来て過ぎていく。
林道におり立ち、そこにある水場で山の水をいっぱい飲んだ。
もう、着いたような気分になったが、しかし、そうは問屋が卸さない。くたびれたジイイサンの体に緩やかだが一時間の林道はこたえた。
新穂高についても、さらに、無料駐車場はその先なのだ。
ゴール寸前にマラソンのゴールテープを500m先に持っていかれたような気分になってしまう。
駐車場の一番遠いところの愛車に着いたとき、リュックを下ろして靴を脱いだ時、安堵が体を包んだ。
以下、下山途中で撮った写真を載せる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・下山途中、杓子平方面を振り返る。
撮影、(10:42)
左手に穂高連邦が見え始める。 撮影、(11:18)
左端の槍が岳は最後まで雲の中だった。中央の鞍部は大キレットだろう?
撮影、(11:18)
撮影、(11:47)
焼岳も見えた。
撮影、(12:15)
最後に
年齢を重ねるにつれ山へ登るのが大変になる。
それでも、山へ行った時の心の清々しさは若い時よりも今の方が大きいかもしれない。
頂上が近づけば、なぜかいつも頭に死んだ親父が浮かんでくる。
「とうちゃん、きたよ。」と山にいう。
そして、母や、妻、子供たち夫婦、今では孫たちも入れて父ちゃんに伝えている。
息子の結婚、娘の結婚、孫の誕生、母の米寿も、いたずら小僧たちの近況も。
だから、頂上が近づくといつも私は、目から汗がいっぱい出る。
しかし頂上に立てば、涙も引き、上下四方の広がりにしばしこの身を置いて何もかも忘れます。仏の懐にいるようなそんな空気をもらう。