古い日記から

1.福野町立福野北部小学校

        昭和39年卒業 の なかま


 ♪ おさななじみのおもいでは  あ~まいレモンのあじがする  と~じる まぶたのそのうらに  幼い姿の  君と僕
 という歌がはやったのは 40年位前か。
 小奇麗な今の子供と違い、キタナサ十分の(男のみ)ハナタレどもが 誰とはなしに 60 の声が聞こえだした せいか  ドウキュウカイヲ したいと思うようになった。そして地元にいる者達
何人かで集まった。それがこの写真。dokyusei.jpgそして、酒飲みながらきめた。来年の8月盆に集まろうと。62人の同級生、ぎらぎらした青年、壮年期から穏やかな老の境地を誰もが少 しばかり感じたからかもしれないと思った。今は廃校になり、鬼瓦だけが公民館に残っている母校。そこで6年間一緒だった小学校の同級生、その名を呼び捨てにしてもいい間柄。
 ・・・・・(平成20年9月) 記

 カワモリ君 

 同級会の下打ち合わせで ハナゴゼンという店で飲む。4人が集まることになっていたがノブオちゃんが上海長期出張でこられなくなった。まだ現役バリバリ。 それで3人の会合となった。
 遅れてきたカワモリ君が入ってきたとき四十数年の歳月が一瞬にしてきえた。 「おおっ。」  それだけで通じた。・・・・・よき哉。・・・・・
 別れ際に彼が行った。「声かけてもろて嬉しかった。」。 
       その言葉が私の心の深いところへゆっくりとおりていった。  ・・・・・(平成21年2月) 記

 卯辰会のみんな   同級会

 8月16日、同級会。45年の時間が無かったかのような気がした。受付場所に据えられた大きな画面の薄型テレビにタケシ君が準備した保育所と小学校の時のお子チャマ たちの写真が順を追って流れる。それは同級会に集まった57と58歳のうさぎ年と辰年の私達の幼き姿だ。そしてそこにうつる一人一人がかけがえの無い子供達が45年間 の辛酸を舐めてなお今も生き抜いて再開したのだ。
 私は思いました。
 幼馴染。  見るからに華やいで年齢を10以上は鯖呼んでもいい人、あるいはその逆の人、不遇 の時を耐え抜いた人、子供の時のように今もおとなしい人、あるいはその逆、幸福感の滲んでいる人、ちょっと不遇の時にある人、・・・・・ 誰もかも会ってみればねんね の時とそう大変わりしないような気がするがセケンにもまれているからちょっとクタビレ感が漂うのは仕方の無いことかもしれない。侘び寂びが分かり始めたお年頃というと ころかもしれない。
 コウジ、ヒロシ、ヒロコ、タモツ、ミツオ、トシコチャン、ヒロミチャン、カズコチャン、ユタカ、ユウチャン、サチヨ、アッチャン、・・・ 名前は呼び捨てかチャン付け、心の壁をはらってすがすがしいのだ。気持ちを語る。話を聞けば今もみな元気で静かな闘志というのがあるのだ。・・・・・よき哉。・・・・
この会にただ一人堂々と遅刻してきた「元ユートーセイで今百姓のカアチャン」のキミちゃんが オレに言った。「あんた、いっつも青洟タライトッタネ、ハハハハハハハッ。」。 
       そのあっけらかんとした笑いにつられて私も笑った。   みんな 又 会おうな。そして 心の洗濯しあおうな。今度はみんなで 北部小学校の校歌を歌おうな。  ・・・・・(平成21年8月) 記

 2.ミヤジマ君

 イナカッペの味 

  囲碁という遊び(?)がある。何か哲学的雰囲気のする遊び(?)である。時代劇で殿様やご家老が高尚な話をしながらパチンとやるシーンがある。知らなくても別によく知っていても良いものだ。ミヤジマ君はそれの達人だ。若いころは
T県のK新聞が主催する本因坊リーグの常連でk新聞の○○本因坊への挑戦者になったこともある。あるときからぷっつりとそのリーグ戦に出なくなった。
 聞いてみた。「新聞に名前が出なくなったな。」と。「今は昔の人の残した碁譜をみてそれで石を並べてみている。」
 長い付き合いだけど彼に一度も碁をしようと言った記憶がない。アマリに強いからもあるが彼が持っている茫洋とした雰囲気がそう言う事を忘れさせてしまう。田舎のどうという事もないオッチャンには人をふわりと包み込む大きさがある。
 だからタマーに会えば余計な心のガラクタを彼の広々さの中へ放り込んでおく。 そしてホッとさせてもらうことにしている。  ・・・・・(平成20年9月27日: 記)

 3.ケンタ

 素朴なアンチャン 

  職藝学院在学中にちょっと気になるアンチャンがいた。勉強は不得意、サッカーは大得意、大工の仕事はちょっぴり難有、時々オトボケ気味に辛口なことを言う。交通事故で1日休んだ以外一日も学校は休まなかった。
  時々、大人の私は未成年のケンタの質問に分かったようなことを言いながら内心はワカランナアと思ったことがしばしばあった。
  就職を決めるときも髪の毛は長髪(挑発?)、服装はアンチャンスタイルだったそうだ。普通の大卒就職試験の世界とは違う、大工の就職。
  その形(ナリ)でも就職が決まり「ガンバリマス」・・・・・・・

 職藝祭というのが10月11、12日にあった。そこでケンタが仕事をやめたことを知る。そのあと数日間、気になっていた。そして電話した。「なんでやめた?」、「社長がきにいらなかったから。」、「半端なくせしてアホカ」、「ハイー、ハイー。」
 ケンタは電話の向こうで素直であった。仕事を探しているという。半年以上働いてやめたのだからガンバッテはいたのだろう。
 大工を続ける気はあるようだ。「今度は3年は辛抱だ。」 そういって電話を切った。 ・・・・・(平成20年10月19日: 記)

 無職 

  ケンタが又仕事をやめた。やる気があるようだが世間の流儀に合わない。 というか、おそらくは未熟を責められそれに敏感に反応してしまうのだろう。 大工道具はどうしたと聞けば「錆びてゴスゴス」だという。何でもいいから仕事せえよ。 そういう内容のケータイメールを返したが10日たっても返事は無い。素朴な青年ケンタ、21歳 辛抱できずに道に迷うている。それは若い時の自分の姿。・・・・・(平成21年7月13日: 記)


 4. ツトム

 元気なヒト 

   20年以上前から年一回は忘年会をする私を含めて4人の飲み仲間。かつて血気盛んな会社の同僚と後輩であった。   ツトム君は一番若い51歳。私とT君、  年上の2人が会社を去った。それでも彼は年1回の温泉どまり忘年会の企画をしてくれる。会社の主力工場の生産管理を担う課長として くどきくどきストレスに耐えている。強い責任感という不可解なものが彼を過労気味の生活に追いやる。そんな中で今年も電話がかかってきた。 「12月27日に忘年会をやろうと思う・・・・。」
  私は感謝し、快諾した。 ・・・・・(平成20年11月30日: 記)


 5. KM君

 生きること 

  KM君とは高校卒業以来あっていない。私の卒業した学校は戦前は農学校であった。戦後は農業、畜産、林産、食品の農業系に普通科と工業科系と家政科を併設した 総合高校となった。KM君は普通科だったが彼の教科書や帳面に記された名前には大きな字で F農学校 KM とあった。それは彼の自己主張のように思えた。勉強は 出来るがそう思わせない雰囲気をもち、そうかといって アイツハデキル とみんなが思っている。そういう存在だったように覚えている。落ち着きのある陽気さでおよそ陰とは程遠いという のが私のKM君に対する人物像であった。たぶん東京で活躍してるんだろうなと思っていた。
 5日前、たまたま高校の同級生M君とあった時にKM君の自殺を知らされた。地元へ帰っていたという。
 2度と彼に会うことはなくなったが 彼についての思いでは私の中に残る。生きていればよかったのになあ と思うが そういう自分も 明日のことは知る由も無い。  そうではあるが、明日もあると思って疑わない。人生とは何なのだと思うことはある。昔昔、人生不可解として身を投げた青年がいた。オレも人生不可解と思うが  そのまんま生きている。まだ仏様が死ねと言ってこないからねえ。
 「KMよ、   たまに夢で高校生の君に会おう。 」・・・・・
      おれはもうちょっと生きてみるよ、今面白くてね・・・  。(平成21年 1月28日: 記)